FC2ブログ

記事一覧

「私と教育集会所活動」の原稿、書きました

昨年、広島市の福島地区の歴史を記録する活動をしておられる方から「教育集会所での活動のことを書いてほしい」とのお話をいただき、「当時の指導員の座談会でも開いて、いろんな話を出し合う中でまとめていったらどうでしょうか」とお答えしておきましたが、つい先日、電話があり「今年度中には記録集を出したいので、3月20日頃が原稿を入れるギリギリの期限。座談会は無理みたいで、魚永君、あなたの記憶で何か書いてくれ」とのことでした。
 それで、1月13日、広島に行って打ち合わせをさせていただいて、記憶をたどりながらお話した内容を整理して原稿を書いて送りました。
 恥ずかしいような文章ですが、「私の若い頃の活動の様子の一部でも知っていただく機会になるかも」との思いでご紹介させていただきます。

     私と教育集会所活動    元福島1丁目教育集会所指導員 魚永智行

私が福島1丁目教育集会所に指導員として関わったのは、1979年(昭和54年)4月から82(昭和57年)年12月までです。3年と9カ月。教育集会所の活動を通じて将来は社会教育の方へ進みたいと思うようになっていたので、家庭の事情で徳山に帰らざるをえなくなったときは本当に残念でした。
 広島大学に入学して、すぐに、中学、高校の頃から疑問に思っていた「部落」のこと、「同和問題」のことを勉強してみたいと部落問題研究会に入りました。
 先輩から「広島には福島地区という部落がある。金崎さんという方が話をきかせてくれる」ということで、当時の西隣保館(現在の西地域交流センター)の会議室で金崎是(かねさき・すなお)さんのお話を聞きました。
 金崎さんから聞いた原爆が落ちた当時の様子、必死で逃げていった先で福島町から来たと分かると急に冷たくされるなど、原爆が落ちた大変な状況の中でも部落差別があったことなどは、始めて聞くことばかりで、金崎さんが描かれた被爆者の絵と合わせて、本当に心を動かされました。金崎さんは子ども達の絵画教室を開いていて、「子ども達には『いいもの』『本当のもの』を見せ、使わせることが大切だ」と話されたこともよく覚えています。
 金崎さんから「『壁』いう被爆体験集を発行するので、手伝ってほしい」と声がかかり、福島地区内の被爆者の体験を聞き取り、記録に残す仕事をお手伝いさせていただきました。
福島地区のまちづくりの歴史を学ぶ中で、学生部落研の活動として「太田川改修工事・立ち退き闘争の今日的意義」をテーマに冊子を作り、学生の全国集会に持って参加しました。広島県立大学の天野卓郎先生に話を聞きに行ったり、当時の運動の先頭に立ってがんばられた藤川春雄さんの話を聞いたりしました。岩波新書の山代巴(やましろ・ともえ)編「この世界の片隅で」にある福島町についての記述もこの時に読みました。
 当時、部落解放運動も大きな節目をむかえていて、「解同」(部落解放同盟)の横暴をただそうとがんばっていた「正常化連」が全解連(全国部落解放運動連合会)になったばかりの頃で、私も、福島地区の全解連青年部の人たちと交流し、夏の原水爆禁止世界大会に向けてのカンパ集めの活動で町内の住宅を1軒1軒訪問するなどして、少しずつ町内の様子、雰囲気が分かってきたような気がしていました。広島県連の委員長をされていた中野初好さんともこの頃出会い、何かの会合の後、よく「飯を食べに行こう」と誘ってくださり、いつもの中華料理店で、中野さんはお酒を飲みながら、私は食事をしながら、運動のことやご自身の受けた差別の話、生きてきた歴史を話してくださいました。

 教育集会所との直接の関わりは、大学1年の時、都町教育集会所の夏のキャンブを手伝ったことからです。翌年は福島2丁目教育集会所の夏のキャンプにお手伝いで参加しました。
 部落研の先輩で福島1丁目教育集会所の指導委員をしておられたKさんから「うちの指導員として来ないか」との話で、「行きます」と返事をしたら、すぐに、「市教育委員会に面接に行け」「町内にアパートを見つけてある。引っ越しを手伝うので荷物をまとめておけ」とどんどんことが進んで行きました。八木先生(八木満喜男さん)と直接会って話をしたのもこの引っ越しの時が初めてでした。引っ越し先は金崎是さんが大家の金崎アパートでした。
 八木先生の著書「オトコ指導員がんばる」(1980年2月発行)に記述されているように、私が指導員になったこの頃は、八木先生が子どもを集め、父母会を組織し、活動の内容も子どものクラブ活動を中心に組織的な活動を軌道に乗せようとしてきたその努力が実りつつあった時期であったと思います。しかし、指導員は八木さんとKさんの二人。八木先生が指導員として期待し、惚れ込んでいた女性が「やっぱり教師になりたい」と指導員をやめられた。「指導員が足らない」ということで私に声がかかったのだと思います。
 私は小学4、5、6年生の男子の組を担当しました。女の子は八木先生、中学生はKさんが担当しました。高校生も何人か遊びに来ていました。平日の活動は午後6時半から8時半くらいまでの活動。宿題などの学習が終わると工作や手芸などクラブ活動をしました。土曜日、日曜日には川・海・山など自然の中での活動をしました。
その頃、全国的に校内暴力、登校拒否などが問題となっていました。福島地区でも、さまざまな問題があり、天満小学校、観音中学校の先生方も集会所に来ておられました。八木先生は私たち指導員に、「子どもに何が起こっているのか、どういう気持ちでいるのかを考え、それに寄り添え。家庭の状況、学校でのこと、子どもの生活を丸ごとつかめ」「子どもの生活を知ること」「子どもが荒れている背景を知ること」「子ども目線でみること」「毎日、活動の日誌(実践記録)を書け」と言われ、自身でもそういう努力をしておられました。私は、見よう見まねで子ども達の接し方を学び、家庭訪問もよくしました。
 1980年(昭和55年)、私が指導員になって2年目に、I君が指導員として集会所に来ました。福島2丁目の出身で大学を卒業して帰って来ました。八木先生とも子どもの頃からの知り合いで、高校生はとても懐かしがって昔のあだ名で呼んでいましたが、さすが八木先生、「集会所ではあだ名は言うな。指導員はみんなの『先生』じゃ。高校生はI先生と一緒に中学生の面倒を見てくれ」とすぐに遊びに来ていた高校生達を「ジュニアリーダー」にしてしまいました。
 I君が来てくれたおかげで、私も指導員でありながら友達でもいられる相棒ができたような気がして、とてもうれしかったし、集会所での活動がそれまで以上に楽しくなりました。
そして、子ども達の担当も小学生男子は魚永、女子はKさん、中学生と高校生はI君で、八木先生は全体を見るという体制ができました。
 その後しばらくして、都町、小河内、福島2丁目と1丁目の4つの集会所の指導員が集まって会議を開き、学校との連絡、子どもの指導のあり方も含めて共通の認識を持とうという方向に急速に展開していくことができたのも、1丁目集会所の中で、八木先生が全体を見ることができる立場になったことが気持ちの上でも良かったのではないかと思います。ただし、集会所の通常の活動の枠を超えた校内暴力やシンナー、不純異性交遊などの問題は八木先生の肩にかかっていました。
私にとって、集会所での活動は気が抜けず、生き甲斐にもなり、指導員としての力量を高めたい、子どもの達のための時間がほしいと考えるようになり、ある日 八木先生とI君と焼き肉を食べに行ったとき思いきって「大学をやめて指導員としてがんばっていきたい」と切り出したとき、たまたま聞いていた店のご主人(子どもが2人教育集会所に来ていた)が、八木先生より先に「自分は中学校しか出ていないが、がんばってこの店を持つことができた。大学まで行っているのに途中でやめるような中途半端な人間に子どもは任せられない」と言われ、ハットと目がさめた気がしました。それで、やめずに大学を卒業することができました。世の中のきびしさも教えていただきました。今でもその店主さんは私の恩人と思って感謝しています。

 子ども達一人一人の思い出はたくさんあります。また集団でしかできない取り組みもたくさんありました。こうやって当時のことを思い出しながら文章を書いていると「今あの子はどんな大人になっているだろうか」「幸せに暮らしているだろうか」などと思ってしまいますが、今となってはとても私の手の届くところの話しではありません。ただ、その子ども達とのふれあい、活動、その全てが私の大事な財産になっていることは間違いありません。

 私が福島町で指導員として過ごした時期は、部落問題の解消の方向、同和行政、同和教育を巡る法律や制度の変化の中で、教育集会所のあり方も大きく変わろうとしていた時期です。最初は八木先生の見よう見まねで必死だった私も、いつの頃からか「今後の集会所活動のあり方はどうあるべきか」という問題意識を持ち始めていました。いつか八木先生やI君と相談してみたいと思っていた矢先に、自分から集会所を去らなければならなくなり、多くの方に迷惑をかけた、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。福島町のみなさんにも何の恩返しもできずに…。
 小西正則さんから「何か文章を書いて」とお話をいただいたときも、「自分に何が書けるのか、書く資格があるのか」と悩みましたが、いったんは切れたと思っていた福島町とのご縁がまだ切れていなかったという喜びもあり、「このご縁はぜひ大切にしたい。もしかしたらこれからも何かお役に立てることがあるかも知れない、そういう機会があればぜひお役に立ちたい」との思いで書かせていただきました。
 最後に、八木先生が作詞をされた「僕の街」と「いま おまえは巣立っていく」という歌を多くのみなさんに知っていただき、記憶に留めていただきたいと思い、私の原稿と一緒に掲載していただくよう編集委員会にお願いいたしました。私もこの文章を書くにあたって、40年ぶりに歌ってみました。ぜひいつか、みなさんとご一緒に歌って交流できる日が来るように念願して、終わります。

DSCN5057.jpg


スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント